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《雑記》 3.11を忘れない

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皆さま、こんばんは。
このような辺境まで、お越し頂き、ありがとうございます。

ちょっと間に合いませんでしたが、3月11日は、東日本大震災の日でした。
まずは、あの日、被災され無念にもお亡くなりになられた皆様や、その後遺族に、哀悼の意を表します。

また、同時に被災され困難な生活を余儀なくされた皆様のお気持ちを考えると、
今なお、筆舌に尽くしがたい物があるかと思います。

私は、関東圏でこの東日本大震災を経験しました。

その時の事も、思い返せば、既に9年前のことです。

残念ながら、時が経つとともに、徐々にその記憶は風化してしまっていますが、
あの時の恐怖と混乱、そして絶望感は、今尚、私の心にこびりつくように残っています。

そこで、おっさん化し、風化し始めた私の記憶ですが、
この機会に少しここに残しておきたいと思います。

※注意
当時の状況を私の体験を元に、書いております。
また、当時の映像やニュース番組をYoutubeより参照しております。
強いストレスとなる方も居ると思いますので、見たくない方はお戻り下さい。

あの日、全てが変わった

nnあの震災の日、私は勤務中でした。
と言うか、ほとんどの方はそうだったと思います。

ちなみに、当時の私の職業は塾講師です。
その日も、何時も通りの面倒な業務と、当たり前の日常だった筈でした。

地震発生 そして停電

ズドンと言う縦揺れの後、激しい横揺れが職場を襲いました。
私も社員たちも、皆の反応として、揺れ始めは、「あ、地震かー」位でしたが……

徐々にその揺れ幅が大きくなり、天井が軋み、音を立てるに至り、

「あ、これヤバイやつだ」と判断し、皆で声をかけ、咄嗟に机の下に潜りました。

鉄筋製のビルが軋み、今まで聞いたことのないような音を聞きながら、
揺れが収まるのを待っていましたが、次の瞬間、照明が落ち停電しました

真っ暗な教室の中で、皆、声をかけ無事を確認しながら、地震が収まるのを待ったのをよく覚えています。

そして、揺れが緩やかになってきたので、皆と共にとりあえず外へと出ます。
幸い、教室にはまだ生徒が来ていませんでしたので、それだけが救いでした。


外へ出ると、ビルから次々と人が外に出てきます。
そして、周りを見渡して、強烈な違和感に襲われました。

何が変なのか……すぐに答えは出ました。

信号機が灯っていないのです。

なにか薄ら寒い物を感じたのは、良く覚えています。

何も解らない状況

停電してしまったので、教室を開けるわけにはいきません。
上層部に報告し、指示を仰ぐ必要がありました。
しかし、ここで問題が発生します。

電話が通じないのです。

備え付けの電話は勿論、大手三社の携帯電話も駄目。
本部と連絡が取れないので、指示を仰げなくなりました。

ちなみに、メールも駄目です。
基地局レベルでやられたようで、メールが送れませんでした。

ここで、実は、超活躍したものがあります。

実は、この当時、私はPHSを使っていました。
これ、使えたんです。

恐らく、大手の携帯会社と回線が別だったからだと思います。
地震直後、私は実家に安否の確認をしておりましたので、携帯が使えないと思っていませんでした。

結局、その後、私のPHSを使って、何とか本部と連絡を取ることが出来て少し待つことに。

とりあえずは、待機ということでしたが、誰の目から見ても、
この状況はただごとではないと知れていました。

ですが、この時はまだ、東北であんな大変なことが起こっているなんて、知る由もなかったのです。

※この時、ニュースではこの様な状況になっていたらしいです。


このニュース動画を見て、当時の複雑な感情を掻き立てられました。

文明の脆さを実感する出来事

教室の隣に、某大手のコンビニエンスストアがありました。
そこに、地震から少しして、近隣の方々が、集まり始めたんです。

ですが、いつもと様子が違います。
何だろうか? と、外で待機中の私はその様子を眺めていました。

そうして暫くすると……

店長さんや従業員さんが、何やらコンビニの入り口に机を並べて、何かを始めたのです。

その状況を見て、私は漸く理解しました。
停電だからレジが使えないんです。

レジが使えないから、レシートも出ません。
記録も出来ません。POSの管理も出来ません。

まじかよ、って空を仰ぎたくなったのをよく覚えています。

ただ、そのコンビニの凄い所は、手書きで領収証を発行し始めたところです。
この状況でも、商売を始めました

私が店長なら閉めちゃうでしょうが、この辺りは、さすがの商売人魂と言ったところでしょうか。
しかし、手書きで一つ一つ、商品を確認しながら書いて行くわけです。

一人一人にかかる時間は、尋常ではありません。
すぐに大行列が発生しました。
それでも、一つ一つ、地道に店員達が対応していたのが、強く印象に残っています。

そうして、結局、何度か余震が襲う中で、業務を継続するのは難しいだろうと言うことになり、帰ることになります。

その時には、日は傾き、夜の帳が降りる時間でした。

徐々に失われていく陽の光を見ながら、
夜がこんなにも恐ろしい物だったとはと、改めて思い知ったのを、よく覚えています。

そう、停電は続いていました。

私は、明かりが全く無い真っ暗な幹線道路を、トボトボと帰ることになったのです。
その当時、実家から職場に通っていましたが、距離にして歩いて1時間という所だったのです。

いつもは、うっとおしい位通っている車が一つもありませんでした。
そして、周りのビルや家に明かりはなく、道を照らす街灯にその光はありません。

なにか、突然、異界に迷い込んだとすら思えてしまうほど、日常から遠ざかった景色でした。

そうして40分ほど歩いた頃でしょうか?
真っ暗なコンクリートの道路の先。
まだ遥かに遠くではありましたが、明かりが見えました。

どうやら家の方は、停電を免れていたようなのです。
その明かりを見て、心の底から安堵したことを覚えています。

実家に帰って初めて知る惨状

幸い実家に一人残っていた母も無事で、改めてお互いに無事を喜び会いました。
ですが、どうやら、父や他の家族達が帰れないらしいのです。

電車でなら数駅とは言え、直線距離で数十キロです。
そして、この当時、父は携帯電話を持っていませんでした。

勿論、会社の電話も通じず……安否が不明な状況です。

そんな中で、一人家に残っていた母の気持ちを思うと、察するに余りあるものがあります。
そうしてそんな報告をしている時に、家の電話が鳴りました。

飛びつくように電話に出た母から、父の無事を伝えられホッとしたのを覚えています。

で、どうやら、父は歩いて戻ってきているらしいです。
元気だな、おい。と思いつつ、とりあえずは、無事が確認できて一安心です。
他の家族は既に連絡が取れていたので、これでまずは、一安心。

そうして余裕が出てきてニュースを見た時、私は、その映像の意味が理解できなかったんです。

津波ってこんなに恐ろしいものだったのか


私は、本当に不謹慎な話ですけど、最初、その映像を見た時、何かのCGか、
映画の宣伝なのではないかと思いました。

しかし、それは、現実でした。

東北の多くの港で、次々と流されていく建物。
しかし、そんな麻痺した頭で、同時に納得していました。
この感覚、私は前にも味わったことがあるんです。

そう、9.11です。
あのビルに飛行機が突っ込む映像を見た時と、私には同じ様な感覚に思えたのです。

今でもこの映像を見ると、当時の無力感を思い出します。
そして、同時にあの当時、あの映像を見るまで、
恐らく殆どの人々が思っていた事を、私も思いました。

なんだこれ? 津波って、こんなに恐ろしいものだったのか、と。

※2020年3月11日追加

この一日の流れをまとめたサイトがありました。

流れを理解するにはとても良い資料なので、もし知らない方は追ってみて下さい。

新たな脅威 原発 そして電気のない暮らし

その後、無事、家族全員も揃って安心したのもつかの間。
次の日、ニュースではとんでもない情報が流れていました。

福島第一原発で、爆発。

私は、理系の出身だったので、その意味が直ぐに理解できました。
放射能がばらまかれる。おい、どうするんだ。

放射能を取り除く技術を、人類はまだ確立できていません。
除染はあくまで、付着した放射性物質を集めると言う物理的な手段であって、
放射能を完全に消すことは出来ないです。

ニュースから漏れ伝わってくる情報を聞くに、正直、打つ手なしな状況かと、私は思いました。

ここから、日本だけでなく、世界を恐怖のどん底に落としいれた、魔の3日が始まったのです。

その状況について、詳しい記述はしませんが、この事で、福島原発は廃炉となりました。
そして、今尚、この負の遺産をどうにかするべく、福島で頑張っている方々が多くいらっしゃいます。

この時の状況を詳しくまとめたNHKの番組があります。
本当はよろしくないのですが、この番組だけは、もし可能であれば、是非見ておいて欲しいです。

原発メルトダウン 危機の88時間


あの時、確かに、日本は沈みかけていたんです。

しかし、それは、現場で命がけで頑張ってくれた方々のおかげで、首の皮一つでつながったんです。

そして、頑張っている方はそれだけではありません。
その当時、避難区域に住んでいて、避難を余儀なくされた皆様もいるのです。
人が去った街をもとに戻すことなど、そう簡単なことではありません。

今の私達の生活は、そんな皆さんの頑張りの上に、成り立っていることを
決して忘れてはいけないと、改めて思います。

不安の増す日々 そして食料品が消えた

何とか最悪の事態は回避されたと報道されましたが、そう簡単に不安が収まるわけではありません。
もしかしたら、情報は嘘かもしれない。だとすると、この先、必需品が無くなるかも知れない。

恐らく、関東圏だけでなく、日本全国でそういう心理が働いたのでしょう。
それに加えて、地震による被害で、交通網や経済状況はズタズタでした。

その結果、スーパーやコンビニから、食料品と消耗品(トイレットペーパー等)が無くなりました

ですが、恐らく、関西方面からでしょうかね?
ある食料品だけ、大量に送られてくるようになって、
何とか、食べるものがないってことはなかったんです。

私達の食を紙一重で支えてくれたもの。
それは、パンでした。

何処に行っても、パンだけは何とか確保できたんです。

あのパンが無かったら、もしかしたら、もっと大変なことになっていたかもしれません。
業者の皆様の奮闘に、本当に感謝しています。

番組の自粛 そしてあるCMが……

食生活だけではなく、TV番組も変わりました。
特に印象深いのは、CMが暫くの間、ACのものだけになったのです。

そのCM、今でこそ見なくなりましたが、当時、数個しか流れていませんでした。 
当時の空気感を鮮明に思い出すことが出来ます。
そして、その中でも、皆さん、多分、これは覚えているのでは……


ぽぽぽぽ~んですわ。これ、見てた人は、刷り込まれているのでは。
今見ても、ああ……ってなります。

そして、そういう状況が、結構続いたと思います。
 

原発の停止 そして輪番停電

今は当時のことを忘れたわけではないのでしょうが、当たり前のように
原子力発電所は再稼働しております。

ですが、当時は当たり前ですが、あんなことがあったので、全国の原発が止められました。

その結果、日本全国で電力不足に陥ります。
特に、夏場の暑い時は、どこでもクーラーを使うので、消費電力がうなぎ登りなのです。

そんな状況下で、輪番停電(計画停電)と言う前代未聞の出来事が起こりました。
電力が足りないので、計画的に送電を中止し、停電にするというものでした。


この光景は、私が初日に見た光景とそっくりです。
大都市でも電気がなくなれば、こうなります。

そして、電気が足りない日々は、色々な所に影を落としました。
特に顕著だったのは、夜の電灯が暗くなったことです。

東日本大震災前は、もっとどこもネオンが輝き、照明が明るく照らしていました。
それが、電力不足から、そういった物がなくなっていきました。

また、街灯も点灯しているものが少なくなりました。
道路沿いで、一個おきに点灯している街灯を見たことがありませんか?
あれは、電力不足から、苦肉の策として一個飛ばしにつけるようになったことが原因です。

その後、青いLED電灯が登場したり、家もLED化が進んだりしてます。

まぁ、今でこそ見慣れた光景ですが、
その当時は、そんな些細なことも人の心にも暗い影を落としていました。

危機は確かにあった

今、私達は何とか、前の様に電気を使い、当たり前の生活を送れている人が多いでしょう。
ですが、あの震災当時、日本が危機に直面していたのは、紛れもない事実です。

人は忘れる生き物ですし、忘れないと生きていけないように出来ています。

ですが、苦しい思いをしたなら、少しでも、私は、その教訓を次代に持ち越したいです。
なのでせめて、当時その危機を知らず、そしてこれから知る皆さんに向けて、

こんな事があったんだよ。

そう伝えておきたくて、こんな記事を書きました。

自己満足な記事ですが、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

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